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逢瀬日記

ご主人様との出会いから今迄。 後天性被虐趣味なわたしの手記。

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障壁を超えて

ちょうど1年前のあのときのことを想う。
つらかったときの話。

あのとき私は、
懲罰として、ご主人様より謹慎を受けていた。

こちらからは日々の報告を行い、
ご主人様からは一切のコミュニケーションを断絶されるという罰。

もう一度、思い返し、
当時の自分の文を読む。

ひとり合宿みたいだ、と思った。


言葉も、声もなく、目にすることもできず、触れることも勿論不可。
自ら感じようとしたり、
感じたいと願ったり、
主を想う自分を信じることしかできなかった時間。
修行のよう。
ひとりの合宿。

本当に、この向こう側に「居る」のかも定かではない、
伝わっているかどうかもわからない。
そんななかで、
2ヶ月、命令を遣り遂げたのは、
意識のうえでも、
また、意識の及ばぬ深いところでも、
なにか、私の大切なものに形を成したように思う。



あのとき、ほんとうに感じたのは、
わかりあえるとか絆だなんて綺麗なファンタジーだということだった
それそのものは、美しいし、大切。
ただ、それは、辿り着ける可能性のあるひとつの場所であって
前提や、スタートラインでは、ない。
私とご主人様のあいだには・・・

興味を感じるのは、
それらが「ある」から、と、努力し、有り続けようとするのと、
それらが「ない」から、つくっていけるように努力するのとは
ご主人様側から区別を要しないものかもしれないし、
判別できないものかもしれない
という思考のありかた


「ある」と思って接し、「ない」と感じた時に不遜になるのと
「ない」と思って接し、「ない」と感じた時にないなりに
いまなにができるか模索できるのとでは、
徐々に関係性は別のルートに分岐していくことだろうと、思う。

また、
「ある」から、あることを感じ、その豊かさを享受する、
十分にある、満たされていることを喜ぶ
ない、と感じた時には、「ある」と感じた時の器のあり方や
いつ、どんなときにあると思えたのかを思い出してみる

また、
「ない」、と感じた時には、ないなりに、あるところを探す
今あるものを広げたり、増やすことを考える
全くなかったところから、今はどれだけあるのかを、振り返ってみる

こんなふうに取れるのだとしたら、「ある」も「ない」もある意味同じで、
分岐ルートからまた同じ地点に合流できることもあるのだろうと、思う。

つたえるのは難しい。
簡単には伝わらない。
本当に大切なことを伝えるには
時間も方法も伝える気持ちも必要。
また、
「つたわる」のだって、
受け取る側の受け取りたい気持ちも必要。
相互、だから。

それを身体と心で知ったということ。

そして、同時に、そんなに大きな障壁を超えてまで、
伝えたいことのある相手なんて、
ひとつの人生にそれほどたくさんいないということ。

(誰にでもそんなふうに接することができたら、
人間レベルは上がると思う 笑)

私があのとき、期限いっぱいをあきらめないで、
伝わっているかわからないという大きな障壁を超えてまで
伝えたいお相手は
ご主人様だった
という気持ちが
強く残っている

思い出して感じるのは
あのとき、
謹慎という状況のもとに、
影も形もなく、
存在するのかを心もとなく感じていた“透明な”ご主人様は、
せいいっぱい、
「うけとる努力」というものをしてくれていたのではないか、ということ
今更・・・・ですけど・・・

私はたくさんの言葉を使ったし、
丁寧に伝える日もあれば、
暴投に終わる日もあったように思う
なにもかえってはこなかったけれど
すべて うけとめてもらっていたのかもしれない
確かめるすべはないけれど・・・・。
謹慎のあいだ、ひとりきりだと感じた日もあったけれど
確かにそばで見ていてもらっていたのだと
今ならそう思う。
というより、
そう信じている。






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